ガン抑制遺伝子

 

 ガン遺伝子アクセルの研究に次いで、医学界の脚光を浴びたのは、そのアクセルの暴走を抑える働きをする「ガン抑制遺伝子」の発見であった。一九八六年のことだ。

 

 ガン抑制遺伝子はガン遺伝子よりもはるかに取り出すのが難しく、発見までには長い時間がかかった。ようやくマサチューセッツ総合病院のサディアスードライジャと先ほどのロバートト・ワイソバーグが、網膜芽細胞腫という小児のガンから発見した。親から伝えられた一三番目の染色体上に乗っている「アールビー(Rb)遺伝子」と呼ばれる遺伝子がそれだった。二個あるうちのどちらかが壊れていると、このガンになる。ガン遺伝子が車のアクセルなら、このガン抑制遺伝子はブレーキの役目。ブレーキが壊れると車はコントロールが利かなくなりガンになるというわけだ。

 

 このアールビー・ブレーキは、その後、網膜芽細胞腫以外でも、骨肉腫や肺の小細胞ガン、乳ガン、膀胱ガンなどで欠陥が発見され、ガンの発生原因として疑われている。

 

 遅ればせながらこのブレーキ遺伝子のハンティング競争もさかんに行われるようになり、これまで、大腸ガンに関係する「ピー(P)53遺伝子」や「ディシーシー(DCC)遺伝子」、乳ガンに関係する「エムシーシー(MCC)遺伝子」など、一〇~二〇個見つかっている。

 

 なかでも、特筆すべきなのはピー53遺伝子である。ほとんどすべてのガンで、このブレーキの故障が見つかっている。とくに大腸ガン、胃ガン、肺ガンなどで多く、とりわけ大腸ガンでは八〇パーセント以上がこの故障で、それも進行したガンでみられるという。なぜそんなに多いのか、いまのところわかっていないが、最近新しい事実がわかってきた。

 

 ピー53遺伝子は、本来、緇胞に放射線や紫外線などによって生じたDNAの障害を監視するポリスマソ的役割をしているというのである。DNAに障害が起こると、細胞の増殖を一時ストップして修復する。もし修復がうまくいかなければ、この遺伝子はアポトーシス(細胞の死)を誘導して、異常の起こった細胞を体内から取り除いてしまう。ただ、このピー53遺伝子は構造的に非常に壊れやすい。これがいろいろなガンのもとになる原因と考えられている。実際、ガン細胞では、この遺伝子がほとんど点突然変異で壊れているという。

 

 通常、ガン抑制遺伝子は、細胞一個のなかに一種類のガン抑制遺伝子が二個ずつ収まっており、その両方が壊れてはじめてガン化か促進される。だから前のアールビー遺伝子は例外的な例である。

 

 では、このように細胞のアクセルが壊れ、ブレーキが壊れると、細胞がどのようにしてガン化の道を突き進むのか、その筋道も研究されてきた。

 

 基本的に、一個や二個のアクセルやブレーキが壊れたからといって、すぐにガン化が引き起こされるとは限らない。おそらく数年以上にわたる長い年月がかかり、双六のようになった、いくつもの通り道を通って、はじめて細胞がガン化すると考えられている。

 

 このガン化のプロセスについて、「ガン二段階発生説」という仮説が長い間支配的たった。ガン化の最初の引き金のことを「イニシエイション(創始)」、以後を「プロモーション(促進)」期間、とよんで、ガンは二段階で発生してくるとした説である。

 

 最初のイニシエイションでは、アクセルやブレーキに亀裂を起こすが、それだけではまだ暴走するまではいかない。専門的には、これをガンのJ剛ガン状態”という。しかしこれを通り抜けると、細胞ははっきりとガン細胞に変貌していく。したがってガン化にとってプロモーション段階が重要で、ガンを起こさせないようにするにはここを阻止する必要があるとされてきた。プロモーションを起こす物質(プロモーター)にたえずさらされていると、防衛軍の目をかいくぐってある日ゲリラが立ち上がるように、ガン細胞がいよいよ表舞台に現れるのだ。

 

 そこで、プロモーターを探し出す研究がさかんに行われるようになり、いろいろな物質が″ガン化の犯人″として挙げられた。

 

 フェノバルビタール。肝細胞への強力なプロモーター。肺ガンの強力な危険因子であるタバコは、イユシエーターとプロモーターの両方が含まれているので、もっとも危険な物質とされた。またサッカリンやチクロも発ガン物質としては弱いけれども、プロモーターとしては強力である。さらにある種の脂肪は乳房や大腸に対して間接的にプロモーターとして働きかけるらしい等々。

 

 しかし、遺伝子の研究が飛躍的に進み、さまざまなことがわかってくると、古い考え方は次第に新しい実験事実にそぐわなくなってくる。ガン細胞でいくつもの種類のガン遺伝子、ことにガン抑制遺伝子が関係していることが明らかになってからは、二段階どころでは説明かつかなくなった。加えてどこからがイユシエーションで、どこからがプロモーションなのかの境界も定かではない。そこで、最近になってこの考え方は修正され、ガンの発生メカニズムを「多段階発ガン」で説明されるようになった。

 

 ガン化は最初に考えられたような単純な現象ではないというのだ。

 

「実に長い時間をかけ、いくつものステップを踏みながら、多くのガン遺伝子やガン抑制遺伝子の異常が複雑に絡んでくるわけです。マルチステップーカルシノジェネシス、つまり多段階発ガンとは、そうした多様な遺伝子の構造上の変化が積み重なり、より悪性のガン細胞が完成されていくことをいうんです」

 

 その多段階発ガンの具体的なプロセスを、アメリカのB・フォーゲルシュタイン博士は、大腸ガンで見事に説明しているので、ちょっと専門的になるが、ここに記してみよう。

 

 まず大腸ガンは、第五染色体上でトラブルが発生することから始まる。ここにある「エービーシー(APC)遺伝子」というブレーキ(ガン抑制遺伝子)のひとつが壊れると、腸壁の表面で細胞増殖が起こってアデノーマ(腺腫)という良性のコブができる。次いで、第二一染色体上にある「Kラス遺伝子」というアクセルに異常が起こって、そのアデノーマをさらに大きくする。さらに、トラブルは第一八染色体へと飛び火する。ここには、細胞と細胞をくっつけるのに関係した「DCC遺伝子」というもう一つのブレーキがあり、これが壊れると、細胞がはがれやすくなって、よりたちの悪い暴走族的性質をもつことになる。暴力団になる前のチソピラ段階がこれである。こうして最後、前にも述べた第一七染色体の「ピー53遺伝子」が破壊されるに及んで本格的な暴力団となり冷酷非情の破壊行為が始まるのである。